米津玄師の独特な音楽や世界観は、どこから生まれたのでしょうか。
そのルーツを探るうえで欠かせない場所が、生まれ育った徳島県です。
米津玄師は過去のインタビューで、徳島で夕方5時に流れていた音楽が自身の
「郷愁感の原点」だと明かしています。
さらに2026年には、徳島で過ごした少年時代とインターネットとの出会いが、
音楽を好きになるきっかけの一つだったと、改めて振り返りました。
この記事では公開情報をもとに、米津玄師と徳島の関係、幼少期からハチ時代、
紅白での「Lemon」、現在の創作まで、故郷が音楽活動にどうつながっているのかを
詳しく解説していきます。
米津玄師のルーツは徳島県
18年間を過ごした故郷
米津玄師さんは徳島県出身です。
現在では日本を代表するシンガーソングライターとして国内外で
活躍していますが、その原点には徳島で過ごした少年時代があります。
2016年、地元徳島で初めてライブを開催した際には、徳島を
「18年間育った故郷」として語っています。
つまり徳島は単なる「出身地」ではなく、子どもから大人へ向かうまでの
長い時間を過ごした場所なのです。
そして2026年のインタビューでは、当時の徳島について
「田舎の、ガランとした町」と振り返っています。
現在の米津玄師さんの世界観を「徳島の自然が作った」と単純に
断定することはできません。
しかし、本人の記憶をたどると、徳島で過ごした時間が現在まで残る
原風景の一つであることは、はっきり見えてきます。
徳島で流れた音楽が米津玄師の原点に
夕方5時の「恋は水色」
米津玄師さんと徳島の関係を考えるうえで、非常に重要なエピソードがあります。
2014年のインタビューで米津玄師さんは、徳島では夕方5時になると
「恋は水色」が流れていたと振り返っています。
そして、その音を聴くと夕焼けや日暮れの頃を思い出すこと、
それが自身にとって**「郷愁感の原点」**になっていると語っています。
さらに重要なのは、そのような郷愁を感じさせる音楽を
自分も作りたいと本人が話していることです。
これは、「徳島の自然が米津玄師の音楽を作ったのではないか」
という推測よりも、はるかに具体的な米津玄師本人の言葉です。
風景ではなく「記憶と音」が残っている
夕方になると。
町に音楽が流れる。
夕焼けの時間がやってくる。
そんな日常の記憶が、大人になってからも音楽と結び付いて残っている。
米津玄師さんの作品にあるどこか懐かしく、失ったものを振り返るような、
感覚を覚える興味深いエピソードです。
もちろん個々の楽曲について、「徳島の夕暮れがモデル」と
断定することはできません。
それでも自身が郷愁の原点と語っている以上、徳島で耳にした音と風景は、
米津玄師さんの音楽を理解するための、重要なルーツの一つといえるでしょう。
徳島とインターネットが音楽への扉を開いた
少年時代に感じた「別の世界」
米津玄師のルーツには、徳島という現実の場所だけでなく、
もう一つ重要な「場所」があります。
それがインターネットです。
2026年のインタビューで、小学生の頃に自宅へパソコンが来て
インターネットにつながった時、その先には何でもあるような
感覚を抱いたと振り返っています。
徳島の町で暮らしていた少年にとって、インターネットの向こう側には
知らない音楽や映像が無数に存在していました。
本人はそこで出会った自由な動画や音楽からカルチャーショックを受け、
それによって音楽を好きになったとも語っています。
ここは米津玄師さんの音楽活動を考えるうえで、非常に重要なポイントです。
地方にいながら世界とつながった
当時の徳島では、テレビ東京系列の番組を視聴できない環境だったことも、
本人は具体的に振り返っています。
見たい作品へ簡単にアクセスできなかったこと。
その一方でインターネットを開けば、これまで知らなかった文化に
触れることができたのです。
この「距離」が、ネットへの強い興味につながったことは、
本人の言葉からも読み取れます。
後に米津玄師さんは、「ハチ」としてインターネット上で
VOCALOID作品を発表していきます。
徳島という故郷と、世界へつながるインターネットの中。
一見正反対に見える二つの環境が、米津玄師さんの創作の原点で
交差していったのです。
徳島からボカロP「ハチ」へ
インターネットが活動の舞台になった
現在の米津玄師を語るうえで欠かせないのが、ボカロP「ハチ」としての活動です。
2009年頃からハチ名義でVOCALOID楽曲を発表し、
「マトリョシカ」「パンダヒーロー」などの作品で注目を集めました。
この活動スタイルを考えると、少年時代のインターネット体験との
つながりが見えてきます。
徳島にいながら、知らない人が作った音楽や映像に触れ、強い衝撃を受けた少年が、
今度は自分自身の作品をネットの向こう側へ届ける側になったのです。
これは米津玄師のプロフィールを、時系列で見るだけでは分かりにくい、
重要な変化です。
「地方だから不利」では終わらなかった
インターネットには、住んでいる場所に関係なく作品を届けられる特徴があります。
米津玄師さんもそこで作詞・作曲だけでなく、イラストや映像を組み合わせた
独自の表現を発表していきました。
その後、本名「米津玄師」として自身の声で歌うようになり、
活動の舞台はさらに広がっていきます。
徳島から東京へ、という単純なサクセスストーリーではありません。
徳島で外の世界への距離を感じ、インターネットで別の世界と出あい
距離を縮めたのです。
その経験も含めて考えることで、ハチから現在まで続く音楽活動の
ルーツが見えてきます。
米津玄師が徳島で「Lemon」を歌った意味
紅白初出場の場所に故郷を選んだ
米津玄師さんは2018年紅白初出場で、大ヒット曲「Lemon」を
徳島県鳴門市にある大塚国際美術館から生中継で歌いました。
米津玄師さんにとって、これがテレビでの初歌唱となりました。
全国から注目される紅白という舞台で、故郷・徳島から歌声を届けたことで、
大塚国際美術館そのものにも大きな注目が集まりました。
放送後にはファンが訪れるようになり、いわゆる「聖地巡礼」の場所としても
知られるようになります。
徳島から全国へ歌声が届いた瞬間
ここで興味深いのは、米津玄師さんの音楽活動の歩みです。
少年時代には、徳島からインターネットを通して外の文化へ触れていました。
ハチ時代には、ネットを通じて自分の作品を多くの人へ届けました。
そして「Lemon」では、故郷・徳島から全国へ自分自身の歌声を届けています。
この流れを考えると、紅白の大塚国際美術館での歌唱は
キャリアの中でも象徴的な出来事だったといえるでしょう。
現在の米津玄師にも残る徳島という故郷
2026年「夜鷹」で再び語った原風景
徳島の記憶は、過去だけの話ではありません。
2026年、映画『キングダム 魂の決戦』主題歌「夜鷹」をめぐる
インタビューでも、米津玄師さんは少年時代の徳島について語っています。
そこで印象的なのが、故郷についての考え方です。
米津玄師さんにとって故郷とは、単純に美しい場所として
語れるものではないようです。
離れたからこそ見えるものがあり、記憶の中で変化するものもあるのです。
2026年のインタビューでは、故郷を「愛すべきもの」として
捉えるまでの変化についても語っています。
徳島が世界観を作ったと断定しない
ここで大切なのは、
「徳島の自然がLemonを生んだ」「阿波踊りがリズム感を育てた」
といった根拠のない説明を事実にしないことです。
本人の言葉から確認できるのは、徳島で流れていた音楽が
郷愁の原点になったこと。
少年時代に地方と外の世界との、距離を感じていたこと。
そしてインターネットとの出会いが音楽へ向かう一つの
きっかけになったことです。
その事実だけでも、徳島が米津玄師さんにとって重要な
創作の原風景であることは、十分に伝わってきます。
米津玄師のルーツにある徳島のまとめ
米津玄師のルーツをたどると、故郷・徳島と音楽活動には
いくつもの接点があります。
夕方5時に流れていた「恋は水色」を聴いた記憶は、
本人が語る「郷愁感の原点」です。
さらに徳島で過ごした少年時代、インターネットの向こうに
未知の文化を発見したことが、音楽を好きになるきっかけの一つになりました。
そしてハチとしてネットへ進み、2018年には故郷・徳島から
「Lemon」を全国へ届けました。
徳島がすべての作品を直接生み出したわけではありません。
それでも、音、夕暮れ、町の記憶は、現在の米津玄師さんへ続く
大切な原風景の一つと言えるでしょう。


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